作家・北原みのりさんの連載「おんなの話はありがたい」。今回は売春防止法改正について。

高市早苗総理の声で始まった売買春の規制に関する法務省の有識者検討会が、先日報告書案を出示した。報告書は9月中にまとまる見通しで、それを受け、秋の臨時国会への改正法案提出が検討されている。1956年に売春防止法が制定されて今年でちょうど70年。長い時を経てようやく、買春者の勧誘行為に処罰規定が設けられることになりそうだ。
とはいえ、報告書案を読む限り、規制の対象になるのは「買春者の勧誘行為」に限られるようだ。想定されているのは主に新宿・歌舞伎町などで見られるような路上売買春で、男性が女性に声をかけ交渉をする行為そのものが規制の対象であり、買春行為そのものは問われない。つまりは路上で買わず、国に届けを出しているお店でちゃんと買いなさい、というようなものになりそうなのです。
歌舞伎町での売買春は今や海外旅行者の間でも知られるようになり、路上で交渉をもちかける男の中には海外旅行者も少なくないという。そういうものを高市さんは目に見えないところに追いやりたかったのかもしれない。結果的には性産業や売買春問題についての抜本的な変革には程遠い報告書案だった。
有識者検討会の議事録を読んだ。これまで会議は8回行われ、ヒアリングには様々な立場の人が参加していた。性産業に巻き込まれた被害者を支援する団体、性産業に従事していた人、性産業の人々の悩みを聞く弁護士、性産業で働く人たちの権利を主張する活動家など……。それぞれの現場から、それぞれの立場から語られる「買春者処罰」を巡る議論は、処罰以前に、「性売買の是非論」が問われる内容であり、非常に興味深いものだった。
ある人は言う。性売買の現場は悲惨だ、買春者を処罰する法律のある国は性産業の需要そのものが減り、結果的に被害者が生まれない。
ある人は言う。性産業の女性は一律に被害者ではない。自立した労働者として捉え、性産業を合法化することが、女性が安全に働ける道になる。
これは今回の検討会を引くまでもなく、何十年も交わされてきた議論でもある。
前者も後者も「女性の性的自己決定権」と「女性の安全」について真剣だ。前者は性的自己決定権を尊重すれば性売買は成立しないと考え、後者は性的自己決定権を尊重するなら性売買を認めろと考える。社会の見え方と人権の捉え方がそもそも違い過ぎるので、両者が向き合って議論しても深まるどころか、対立がどんどん深まるだけ……とも言える。私自身は前者の立場で性産業に批判的なのだけれど、女性の人権をうたうフェミニストの学者には後者の人が多いのも事実だ。そして、これは自省を込めて記すが、反対意見どうしお互いに軽蔑しあい議論どころではなくなっている現実がある。議論とも言えない議論が硬直化している間に女性の貧困は深刻化し、性搾取、性暴力の被害者が膨らみ続けている現実があるというのに。
今回の検討会では、良くも悪くも「バランス良く」様々な人たちが登場していた。そして案の定、議論は深まらないのだった。
検討会では「買春者を取り締まったら性産業が地下化して、女性がますます危険にさらされる」という意見も幾度か出ていた。これも性産業を肯定する人権派がよく語ることでもある。一方で、性売買を合法化しているドイツなどではむしろ「商品」がどんどん必要となり、人身売買が横行し、「表」と同時に「裏」も増えているという現実を訴える反対派もいる。どのように現実を捉え、どの視点で精査していくかで、結論がまるで違い過ぎるため、検討会の報告書案からは「慎重になる必要がある」というふんわりとした結論に導かれる空気が流れている。
とはいえ、検討会でくり返し主張されていた「買春者を処罰したら性産業が地下化して、女性がより危なくなる。だから、処罰すべきじゃない」という理屈を聞いて思い出したことがある。もう何十年も前のことだが、法律の専門家と話していたときに「性暴力を厳罰化すべきだ」と私が言うと、「性暴力を厳罰化したら、レイプ後に女性が殺されるリスクが高まる」と言われたのだった。レイプが重罪になったら告発の口を塞ぐ方向になりかねない、という意味だ。「買春者を処罰したら性産業が地下に潜る」ということが当たり前のように語られる検討会の議事録を読みながら、そのことを思い出した。
女性の命を守るためにレイプを重罪にしない。女性の安全を守るために性産業は合法化する。
どちらも理屈はとても似ている。女性の安全を盾にし正論ぶるが、問題を起こす男性の責任を消すという点で。
今回の検討会が導いた報告書案がどこかふんわりしているのは、きっと買春者の存在が薄かったからだろう。
そしてやはり、性産業を「女性が自ら選んだ経済活動であり、女性が自らのセクシュアリティーを肯定するからこそ行っていて、女性が性的自己決定権を行使する選択肢」のように語るには、事実を捉えていないように私には感じる。逆ではないのか。男性が安全に安心して買春できるために、女性という商品が永遠に必要なのではないか。その重大な事実を隠すために、女性を主語にしたいのではないか。
買春者を主語にして性売買を語れない難しさ。性売買の議論から「買春者」が見えなくなっていることが、性売買を巡る議論の限界なのかもしれない。
私がこの国で生まれたときから、この国は、買春するのが当たり前の社会だった。
買春がない社会を私は知らない。「ない社会」がどんな社会かを知らない。だけど「あるのが当たり前の社会」が、何かを損なわせているような感覚が拭えないからこそ、私は批判者の立場に立っているのだと思う。心から知りたい。なぜ買春が当たり前なのか。そもそもセックスするのは権利なのか。セックスはサービスになり得るのか。性を売るのはセクシュアリティーの発露なのか。セックスの売買は性的自己決定権の行使なのか。そもそも性的自己決定とは何なのか。 売春防止法制定から70年。この国の性産業はますます発展し、買春者は主語にならないまま、姿を見せないまま、女性たちの安全と人権と貧困と被害がそれっぽく語られている。大切な議論、だけれど、どこかとてもずれている。


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